イケメン・モデルで俳優の長田ショーンさんが12月10日放送の【世界ふしぎ発見!メキシコの源流 アステカ王国】に登場です!
長田ショーンさん、初★の“ミステリーハンター”です。
どんなレポートをしてくださるか、今からとても楽しみですね!
そんな長田さんが今回訪れたのは南米メキシコシティ。
この町の下には、ある文明国家の遺跡が眠っています。
それは、14世紀前半にメキシコ中央部に現れ、繁栄を極めた古代文明
「アステカ」
最近は国内外の“古代都市・古代文明”の考察が話題になっていますね。
今回の世界ふしぎ発見は、メキシコのカラフルで華やかな伝統『死者の日(日本のお盆のようなもの)』を取り上げます。
長田ショーンさんが『死者の日』の伝統的な過ごし方を現地のご家族に密着取材。
さらに、『死者の日』に町中にあふれるドクロと深い関係があるメキシコの源流、「アステカ王国」を紐解いていきます。
![22583876 - Emz Lab お茶の入った湯呑を持つレッサーパンダのイラスト 「アステカ王国・・・・・気になる・・・」の吹き出し](https://emz-lab.com/wp-content/uploads/2022/12/22583876-300x228.jpg)
というわけで、番組とは違う視点でアステカ王国について色々と調べてみたら、
今まで知らなかったことや、興味深いたくさんのことが分かりました。
今日はそのうちのいくつかを、みなさんと一緒に見て行きたいと思います!(^^♪
Source: Bright Side Japan
「アステカ」 名前の由来
私たちはアステカ王国の人々のことを「アステカ人」と呼んでいます。
が、これ、本当の呼び名ではないんです。
この呼び名はヨーロッパ人が付けた名前で、北メキシコにあるAZTLAN(アストラン)という地名が元になっています。
アステカ人たちが自分たちのことを呼ぶときは、「メシカ(Mexica)」と呼びます。
メシカ(Mexica)は現在のメキシコ(Mexico)という国名の由来です。
遊び「バスケットボール」
アステカ人は、現在の「バスケ」と同じような遊びをしていました。
その名前は「ウラマリストリ」。
彼らは、「トラチトリ」と呼ばれるコートの中でプレイし、使われたのは当時では珍しかったゴム製のボールでした。
ゴールは石製の輪で、その中にボールを通します。
ボールは顔や肘、膝、腰以外に触れてはいけない上に、地面に落としてもいけませんでした。
・・・バスケットボールよりずっと難しいな・・・
独特の暦
アステカ王国では1年を365日とする太陽歴が使われていました。
「独特?どこが??」と思いますよね。
同じ”1年が365日”でも、私たちの暦と違うのはここからです!
アステカ人たちの暦の1年は、20日から成る18の月に分けられていました。
マヤ歴の「ハアブ」と同じですね。
![1024px-Mayan_Zodiac_Circle - Emz Lab マヤ文明のハアブ暦の石板](https://emz-lab.com/wp-content/uploads/2022/12/1024px-Mayan_Zodiac_Circle-300x300.jpg)
この暦、まだまだ独特なところがあります。
先述の【20日×18ヵ月】だと360日にしかなりませんよね?あと残りの5日間は??
余り(?)の5日間は、一年の最後に付け加えられました。
そしてその5日間は「不幸の日」と呼ばれ、5日間不幸な日々が続くと考えられていました。
超アンラッキー。
年末に5日間も不幸が続くなんて。この5日間はみんな家から出ないのが良いかもしれませんね。
たまには家でゆっくりしたほうがいい。うん。
特有の奴隷制度
アステカ王国では、暦だけでなく奴隷制度も独特なものでした。
貧しくお金に困っている人は、自分の子どもや、自分自身までも奴隷として売ることが出来ました。
特殊なのは、人々はその取引で得たお金に加え、労働から得た賃金で、自分自身の自由を買い戻すことが出来ました。
「一時的な身売り」ということでしょうか?そしてそのお金を返して解放してもらう…??
また、奴隷たちは脱走してなんとか寺院にたどり着くことが出来れば、
誰かに所有されている奴隷という身分を解消することが出来ました。
Sourceでも言われていましたが、本当に鬼ごっこみたいですねw
奴隷を買う人も大変だったでしょうw
そして、アステカでは必ずしも奴隷=不幸とは限りませんでした。
奴隷とは言っても、結婚することが出来、家族や財産を持つこともでき、
さらには自分の奴隷まで所有することが出来ました。←どういうシステムw
一夫多妻制
アステカの男性は、厳格な掟に従い真面目に生きてさえいれば、複数の女性と結婚することが出来ました。
1人だけでなくたくさんの妻を持つ男性は裕福で、社会的地位も高い人がほとんどでした。
そう、たくさんの奥さんを養わなければなりませんもんね。
私が住んでいたインドネシアのムスリム(イスラム教徒)も一夫多妻が可能で(4人までだったかな?)
男性は頑張って働き、歳を重ね、生活に余裕が出来てきたら
「そろそろ2番目の奥さんをもらおうかな」
という感じでした。
デヴィ夫人もインドネシアのスカルノ元大統領の3番目の奥さんでしたよね。
そして、その男性に甲斐性があれば私が知っている限りでは、
1番目の奥さんもそれ以降の奥さんたちもみんな仲良くされていました。
甲斐性がない(と私が思う)男性は、新しい奥さんにべったりで、それ以前の奥さんたちに生活費すら渡さず…
それって、一夫多妻というよりただの”不倫”と変わらないと私は思いました。
アステカでも不倫は重罪で、
離婚は認められていましたが、不貞行為に与えられる罰はなんと死刑でした。
時代・国問わず、不倫する人には疫病神がつくらしいので気をつけましょうw
“記録”の技術
アステカ王国で使われていた言語は、ナフアトル語(ナワトル語)で、文字はアステカ文字です。
ナフアトル語(ナワトル語)・アステカ文字には絵で出来たアルファベットが使われていました。
![316px-Boturini_Codex_folio_6 - Emz Lab ナフアトル語(ナワトル語)・アステカ文字の絵で出来たアルファベット](https://emz-lab.com/wp-content/uploads/2022/12/316px-Boturini_Codex_folio_6-300x228.jpg)
エジプトの神聖文字のような感じですね。
そして、アステカの人々は、木の皮、鹿の革、木炭のペンを使って文字を書いていたと言われています。
彼らが記録していた内容は、宗教的な生贄、主要な出来事や納税の記録などでした。
アート&工芸
![1024px-Piedra_del_Sol_en_MNA - Emz Lab 太陽の石](https://emz-lab.com/wp-content/uploads/2022/12/1024px-Piedra_del_Sol_en_MNA-300x254.jpg)
アステカ人はとても豊かな芸術の才能を持っていました。
彼らが作成する品のほとんどは神様への捧げ物だったといわれています。
細かい陶芸品、彫刻、寺院に納める巨大な偶像、リアルな人や獣の姿 etc.
使われた素材はヒスイや黒曜石、水晶などでした。
そして、アステカでは、戦の技術も一つの芸術として考えられていました。
また、詩も書いていたそうです。
義務教育
アステカには“義務教育制度”が存在していました。
裕福な貴族の子どもたちは、歴史、天文学、芸術、政治、指導力について学びました。
女の子は女学校へ行き、そこで料理や織物などの家事について学びました。
アステカの首都
アステカの首都は湖の真ん中にあり、『テノチティトラン』という名前でした。
![20090617_2458404 - Emz Lab アステカの首都テノチティトランのイラスト](https://emz-lab.com/wp-content/uploads/2022/12/20090617_2458404.jpg)
人口は約20万人で、当時のヨーロッパのどの都市よりも栄えていたそうです。
テノチティトランには都市の衛生を管理するゴミ収集業者なども住んでいました。
その後、テノチティトランがあった湖は干上がって陸地になり、
現在ではメキシコシティがその跡地にあります。
チョコレート
アステカの人々とチョコレートはどういう関係があるのでしょうか。
チョコレートを世界で初めて発見したのはアステカ人と言われています。
私はチョコレートが大好きなので、チョコレートを全世界にもたらしたアステカ人に感謝です✨
チョコレート(chocolate)という言葉は、ショコラトール(chocolatre)が語源。
私たちが使っている「チョコレート」という言葉はアステカの人々の言葉からきているんですよ。
カカオは「神様の食べ物」
チョコレートの原料となるカカオを“テオブロマ(神様の食べ物)”と名付けたのは、
スウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネです。
これはギリシア語「神(theos)」と「食物(broma)」を合わせた言葉。
古代メキシコではチョコレートは神様からの贈り物でした。
アステカ人の住む古代メキシコで生まれたチョコレートの原料となる“神様の食べ物”カカオは、
紀元前1,100年頃のマヤ文明の時代から、メソアメリカ地域で栽培されていたとされています。
カカオの木が育つのは、赤道を挟んで北緯・南緯ともに20度の間の、高温多湿の土地に限られます。
ポテチカ商人と呼ばれる人たちが、アステカの首都テノチティトランなどの高地地域から、
カカオ産地のソコヌスコなどへ約1000kmもの長距離を旅をしたそうです。
メソアメリカ(Mesoamerica):
メキシコおよび中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、様々な高度文明(マヤ、テオティワカン、アステカなど)が繁栄した文化領域。Source: Wikipedia
“空気の神様” ケツァルコアトル
古代メソアメリカ人に最も崇拝されていた神々の一人に、ケツァルコアトルという”空気の神様”がいました。
![800px-Quetzalcoatl_telleriano2 - Emz Lab ケツァルコアトルのイラスト](https://emz-lab.com/wp-content/uploads/2022/12/800px-Quetzalcoatl_telleriano2-290x300.jpg)
地上の人々に多くの教養と文化を教えてくれる神様で、
それまで神様だけの食べものとされていたチョコレートとトウモロコシを人々に与えたといわれています。
このため、カカオは人々からとても珍重され、儀式に使われたり、薬やお金としても使われていました。
当時日本は縄文時代(!!)。どれだけ昔の話かこれで分かりますね!
しかし、この神様ケツァルコアトルは、闇の世界を支配する闘いの神に毒を飲まされ遠いところに旅立たされてしまいました。
ショコラトール(Chocolatre)
![2d2f1689 - Emz Lab ショコラトールを飲むモクテズマの絵](https://emz-lab.com/wp-content/uploads/2022/12/2d2f1689.jpg)
カカオ豆の粉末にトウモロコシやコショウを加えて煮たり、
すりつぶしたバニラの香りをつけたショコラトール(ほろ苦いという意味)は、
どろどろした苦い飲みもので、これをアステカの王様モクテズマはことのほか好んでいました。
前述しましたが、チョコレート(Chocolate)という言葉は、ショコラトール(Chocolatre)が語源です。
モクテズマは、一日に50杯ものショコラトールを飲んでいたとのこと。
ショコラトールは大変高価なものであったため、一般市民はとても飲むことができませんでした。
ヨーロッパへ
1519年、アステカにフェルナンド・コルテス率いるスペイン人たちが船でやって来ました。
コルテスの風貌が、毒を飲まされ旅立たされてしまった神様ケツァルコアトルにそっくりだったため、
アステカの人々はコルテスのことを「ケツァルコアトルの再来だ!」と大喜びし、
モクテズマ王も最高のもてなしをしました。
モクテズマ王は、コルテスに一杯のココア(ショコラトール)と、なんとカカオ農園までも贈ったと言われています。
このようにして、スペイン人はショコラトールの存在を知りました。アステカのみんなの勘違いからw
当初は、その高価なショコラトールの味も貴重さも理解出来ないスペイン人たちでしたが、
次第に原住民から調理法などを習うようになり、愛飲するようになったと言われています。
その後コルテスはアステカ王国を征服してカカオ豆をスペイン宮廷に持ち帰りました。
すると、スペイン王はその強壮作用の虜になり、以降100年に渡って、
チョコレートはスペイン王の秘密とされました。
飲みものから食べものへ
チョコレートが飲みものから食べものになったのは、1800年以降、ヴィクトリア王朝時代(1837 – 1901)と言われています。
1820年代、チョコレートキャンディの元となったフォンダン・ショコラが、スイスのルドルフ・リントによって作られました。
1842年、キャドバリー社が、イーティング・チョコレートを開発。
キャドバリー社は当時のイギリスを代表する3つのココアメーカーのうちの1つです。
![cadbury-mix8-01 - Emz Lab イギリスのココアメーカー・キャドバリー社のチョコレート](https://emz-lab.com/wp-content/uploads/2022/12/cadbury-mix8-01-300x265.webp)
キャドバリーのチョコ、
オーストラリアに居た時に
よく食べてたなぁ🍫
💛懐かしい💛
その後、はちみつや砂糖をチョコレートに混入することに成功し、スイスでは
ダニエル・ピーターによってミルクチョコレートが開発されました。
これが板チョコの始まりです。
少し遅れてアメリカでは、1900年にみなさんご存知ミルトン・スナヴェリー・ハーシーがチョコレート製造を開始。
チョコレートが飲みものから食べものになったのは、ここ数世紀のことなんです!
ちなみに日本へは・・・
チョコレートが日本へ入って来たのは正徳5年(1715年)で、
当時は「チョクラーツ」と呼ばれていました。
この音、何語が元なのでしょうね?やっぱりオランダ語なのかな?
明治10年(1877年)には「貯古齢糖(ちょこれいと)」という名前で販売されましたが、
「牛の血が混ざっている」と噂になり、なかなか売れなかったそうです。ひどい噂💦
![img_910c648f398c65b73daa83129804e72132456 - Emz Lab 明治時代日本のチョコレートの広告](https://emz-lab.com/wp-content/uploads/2022/12/img_910c648f398c65b73daa83129804e72132456.jpg)
チョコレートが日本で人気のお菓子になったのは、
森永製菓が本格的な製造を開始した大正7年(1918年)以降でした。
ちょっとした疑問
ここでちょっと、チョコ誕生に関係ありませんが、疑問。
大正時代からあるお菓子なのに、戦後GHQが日本に入った時
子どもたちがアメリカ軍人に「ギブミーチョコレート!(チョコレートちょうだい!)」と集まっていたということは、
チョコレートは日本では元々高価だったのでしょうか?
それともただ戦後の物不足で子どもたちの手が届かなかっただけなのでしょうか?
![23149776 - Emz Lab 頭の上に「???」を浮かべたレッサーパンダのイラスト](https://emz-lab.com/wp-content/uploads/2022/12/23149776-300x225.jpg)
また調べておきます!
まとめ
- アステカ人は自分たちのことを『メシカ』と呼んでいた。メキシコ国名の由来。『メシカ(Mexica)』→『メキシコ(Mexico)」
- 現代のバスケットボールに似たスポーツ
- 独特の暦、独特の奴隷制度
- 一夫多妻制
- “記録”する技術有り
- アステカ人は芸術の才能が豊かだった
- アステカの首都は『テノチティトラン』
- チョコレートを世界で初めて発見したのはアステカ人と言われている
最後までお読みくださりありがとうございました!(^^♪
キャドバリーのチョコレート工場行きたい🍫💛
![25b4054098d675957fbe54c45d819a9d - Emz Lab キャドバリー社チョコレート工場の外観の写真](https://emz-lab.com/wp-content/uploads/2022/12/25b4054098d675957fbe54c45d819a9d-300x169.jpg)
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